海外生活何でもかんでも徒然なるままに〜カリフォルニア発〜

アメリカ生活での異文化雑記ブログで @harmstudio(夫)とダラダラ合作漫画も描いたりします。日英バイリンガル(フランス語ものんびり独学中)

選択肢とパラレルワールドを交えた話

こんにちは、Gurerine(グレリーヌ)です。 最近引っ越して現在はサンタモニカに住んでいます。ようやく少しずつブログの使い勝手に慣れつつあります。今回は少し長いです。

「迷い」と「決断」なんて

と、考えてみたところ、人生こんなことばかりではないか。生まれてから死ぬまで、多分ずっと迷いと決断の繰り返しで、更に言えば、迷いと決断の間には選択肢がウヨウヨ潜んでいる。

そして、それぞれの「あの頃」という迷いの地点で、もしも自分が「あの頃」の決断とは違った決断をしてなら、今現在とは違う道、すなわち別の「今」があるとしたら・・

と思わざるをえない。まるで、『ドラゴンボール』や『のび太の魔界大冒険』にもまさる、パラレルワールドと言うものは実際には存在するのではないか、とこんなことばかり毎日考えてしまうのも無理ない。

だって、選択肢が毎秒単位で存在し、その度に迷い迷い、迷いながらも、前に進んでいることのなんと多いことか。即決していることでさえ、ミクロ単位で迷いが発生しているのでは、とさえ思ってしまうのは、大げさとは言えない。

 

例えば私は今パチパチ無心でパソコンでブログを書いている。けれど、ちょっと意識してみると、あれ、喉がちょっと乾いてるかな、すぐ手元にはコーヒーの入ったマグカップがある、けれど、うん、別にまだ良いや。あともうちょっとしたらきっと手をのばすだろう。そう思って案の定すぐにはマグカップには手を出さない自分がいる。そして、もう一文書いたところで、はい、今まさにコーヒーを一口飲んだ。今はブログを書きながら意識的に迷いと決断らしい行為を実践した訳だが、無意識の中では更に数千、数万、もしかしたら数億単位で、誰しも物事を判断して生きていると言えよう。

目覚ましが鳴ってすぐ起き上がるかあと5分だけ、とそのまま寝続けるか、今日仕事中にトイレに行くタイミング、ドアを開ける手が右か左か・・・それぞれに落とし穴はあるが、それを全部自然に日々やってのけている。数ある選択肢の中でいとも自然に、だ。生きているとは、大したものだな、と、ここまで話を膨らませてしまったところで、私は今、この書き綴った内容について、少々大げさかなーと後悔をしているのも、書き続けることを決断したの故の結果である。

どんな人でもこれまでの人生、迷いなんて星の数でしょうね

自分の思い出せる過去の迷いをサクッと3つあげてみよう:

小学生の時片思いだった男の子に告白しようかどうか迷った時➡告白したが相手の反応はなし、その後何も変わらず、むしろいたたまれなかったなあ。あとから考えたらつまり思いっきりフラレたのだ。

☆悩んだ期間 丸1年間以上

高校卒業後、大学進学するか、高3時の夏から1年間アメリカに交換留学するか迷った時➡以下、その後については、『私の場合:⬇ ⬇』にて記載しているので参照いただきたい。高3で留学をすることになるが、あれはひどい1年だった。振り返ってみて、それでも留学を選んで良かったと今は思えるが・・・

☆悩んだ期間 3ヶ月

(高2の夏休みの時点で海外留学する生徒がいたことを知ってから)

東京にある外資系IT企業に在籍中、ヨーロッパ本社に数日間の出張があった際のこと。出張中日本人の同僚達と常に行動を共にするか、後ろ指さされつつも一人で単独行動するか迷った時➡全て別行動を実施。おかげでヨーロッパ本社の社員と仲良くなり、夜まで語り合うことができた。久々に日本人とはまた違った感性や視点・知識に触れ、滞在中は有意義な時間を過ごすことができた。(同僚には帰国後何とでもとりつくせることができた)

☆悩んだ期間:現地到着後、空港の空気を吸ってから1分以内(出発までずっと悩んではいたが、到着してからほぼ即決だった)

 

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その後暫くして使い始めました。(2、3日に一回)

私の場合・旦那の場合

さて、私の地味な人生の中で、もう少し今の自分に辿り着くまでのダイジェストな話をしてみたい。(前半は私Gurerineの場合、後半は旦那の場合と続く)

私は小学校の頃、ひょんなことから、近所の友達が通う英語学習塾に通うことになった。そこは大手でもなんでもなく、100%個人で経営している塾だった。

おばさんが一人で、自分の小さな一軒家で教えているという何とも地味なもんで、まるで寺子屋のような感じとも言える、その一軒家の塾で、私の人生が変わった。

自分のアカデミックな得意分野が英語であると、「無意識」に把握したのだろう。むしろ全身全霊で反応したとも言える。あの頃、別に猛勉強した訳でもなく、他の子供たちと同じように週一回のペースで塾に通っただけなのだが、とにかく英語が得意になってしまった、それが私なのだ。あのおばちゃん先生の丁寧過ぎるほどの細やかな教え方があったからこそ、今の私がいる。そう、つまりまずはあのおばちゃん先生のおかげなのだ。あの場所であの時代に寺子屋的な英語の先生になっていてくれてありがとう、と言いたい。英語塾を開こうと決断したおばちゃんには感謝しても、実は感謝しきれないのだ。

私の場合:⬇ ⬇

後に、中学校は苦しまずとも英語(だけ)トップ ➡ 後に高3で1年間の交換留学 ➡ 留学先はアメリカ中西部カンザス州のド田舎(人口は当時で600人だった)で、日本人どころかアジア系アメリカ人もいないところ。孤独との戦い、自分の精神のみみっちいさ、語学力のなさ、人生の厳しさを知る ➡ とにかく孤独にどっぷり浸かり、体重は70㎏まで増え帰国 ➡ この交換留学での生活から得た知識や考え方をまとめた小論文を、関西のトップ私立大学の大学受験で提出、そして合格 ➡ 大学では世界各国の留学生と意識的に交流を求め、海外の友人を増やす(卒業後も連絡をと取り合い、交流は今も続く) ➡ たまたまスペイン語の授業で隣に座った、日本人女子学生と仲良くなる ➡ 卒業後、お互い社会人になったある日、その女子学生に夜ご飯に「アメリカ人の友達も来るからおいで」と誘われる ➡ その夕食の場にいたアメリカ人男性と出会う。これがのちの私の旦那である ➡ 暫くして彼と付き合い始める ➡ 1年が過ぎ、彼がアメリカへ帰国し、8ヶ月間の遠距離恋愛が続く ➡ サンフランシスコで試験的に同棲(結婚してから一緒に住んで、大失敗なんて言うのを恐れていた私は、先に同棲を優先した) ➡ お互い好き合って、このまま一緒に過ごせることが確認できたところで、数ヶ月後にサンフランシスコで結婚 ➡ そのままサンフランシスコで数年間過ごし、東京に引っ越したりもしたが、今から一ヶ月前に旦那の仕事のため再びサンタモニカへ引っ越し ➡。。。。現在の私 

 

私はよく旦那ともパラレルワールドについて話し合う。特によく話し合うのは、お互い出会わなかったシチュエーションで、これって絶対ありえたよね、と話がどんどん進むのだ。(そう、旦那もSFだったり、ホラーだったり、異次元の世界の類が大好きである)

旦那の場合:⬇ ⬇

シカゴの大学時代は、彼のルーツでもあるドイツ語か、大ファンの元祖ゴジラ映画やゲーム大国の言語(日本語)を学ぶかで迷う ➡ 大学1年の頃、夏休みを利用して2週間の短期日本語留学に参加する ➡ 結果日本がいたく気に入った。その時点で日本語を学ぶことに ➡ その後更に、在学中に3ヶ月間の日本留学プログラムにも参加し、更に日本語を磨き続ける ➡ ある日、日本語の授業中にクラスメートから、日本人の留学生が3名、もうすぐ1年間の交換留学で大学にやって来るので、いろいろエスコートしなければならない、という話を聞く ➡ そこで自分も是非会いたいと申し出る ➡ 日本人留学生達と仲良くなる(旦那はクリスマスにもこの留学生達を実家に招待してあげたのだ。この話を聞いて、私の高校留学時代の記憶とえらい違いだ、と軽く嫉妬する私) ➡ 1年後、日本人留学生達が日本へ帰国した後も、Eメールのやりとりが続く ➡ シカゴの大学を卒業後、職が決まらずキャリアに悩む ➡ JETプログラム(日本政府公式の外国人による英語教育を促進するプログラム)に応募、合格の後、担当する大阪和泉市に引っ越し、ALT(Assistant Language Teacher)として小中学校で仕事を始める ➡ 1年が過ぎ、大阪暮らしも2年目に突入した頃、大学時代に仲良くしていた、もと日本人留学生のうちの一人(大阪在住)と久しぶりに連絡をとってみる ➡ 久々の再会の後、ちょくちょく会うようになる ➡ その子の姉も含めて3人で会うようになる。この姉こそが、私が大学時代にスペイン語の授業で友達になった人物である ➡ ある日、姉の方と夜ご飯をする際、私も誘われる ➡➡このようにしてお互い出会いに至り、今日に至る。

➡の方向が別の道だったら:数億のパラレルワールド

さて、私の場合も旦那の場合も、この矢じるし(➡)のどこか一つでも違えば、お互い出会わなかっただろう。

また当然それぞれの➡よりもさらに細かい矢じるしが無数にあり、その都度、大きくも小さくも、迷いが当然あり、別の道も当然あった。

 

私なんか、そもそもあの英語塾でおばあちゃん先生に教わらなければ、英語など興味もなければ得意にもならず、後に留学も当然しないだろう。よって大学にしても、一般受験でランクの低めな別の大学に進学し、外国人の留学生と出会わなければ仲良くもならず、海外へのネットワークを広げることもままならず、恐らく全く別もんのタイプの人間になっていたはずだ。それはそれで、そのパラレルワールドにいる私のことは、幸せであればそれで良いと思う。

 

私など、のらりくらりの小学生だったもんだから、別に英語なんかどうでも良くて、気にもとめていなかったが、塾に通うのは嫌だとも言えただろう。

ただ、母に進められるがまま、何となしに近所の友だちと英語塾に通ったまでだ。

正直、ただ迷うこともなく「英語塾ね、いいよ別に」と間抜けな答えたをしたのらりくらりな私がいたまでで、のらりくらりな私に育ててくれた両親のおかげであり、結果でもある。

逆を言えば、競争心溢れる進学塾でもなく、のほほんとした雰囲気の寺子屋を選んでくれた母がおかげなのだ。さすがに母も「あんなにのらりくらりな小学生だから、進学塾はちょっと無理だろう・・・でも来年は中学生だから、英語だけでもねえ」とこんな調子だったに違いない。

 

このように子供だった頃の私にとっては特に、前述のおばちゃん先生の人生の選択や決断といった、こうした周囲の人たちの選択や決断にも感謝せねばならない。当時全ての状況がそこにいてくれたおかげなのだ。

このように何億という可能性から選んできた(選ばれてきた)今ある自分に対しては、周りへの感謝とともに、できるなら常に褒めてあげたい。それでも後悔が寿司詰めのように頭の中にはいっぱいあるものだから、日々をやり過ごすのも一苦労だとも言える。数億個のパラレルワールドにいる、別のことをしている「私」もそう思っているのだろうか・・・

 

一つ自信を持って言えること:

おばちゃん先生のおかげで、得意分野が見つかった時から、それに対して決してそっぽは向けなかった。「もう英語は・・・いっかなー」ということだけは、小6で塾を始めてからもうすぐ37歳になる今まで一度もなかった。いつしか英語という得意分野は自分の楽しみになり、貪欲に追いかけていたことは確かだったし、いつも自分の中心にあった。洋書、洋画、洋楽、生きた会話、そういった類に触れていることが幸せで、いつもそれらに囲まれるようにしていた。

 

今:まさに今

このブログコンテストを見て、参加しようとしていた少し過去の私にも当てはまるが、既に今もまさに、迷いが沢山あって困ったものなのだ。

まず一つに:

ああ本当は今すぐにノルウェー行きの航空券を見て購入しないと、今にも航空券が上がってしまうかもしれないじゃないか・・・(今年の夏の旅行は、友人の住むノルウェーでも行こうかと考えている最中なのだ)

その他:

今日のサンタモニカは非常に天気が良いから本当は、久々に部屋から出て太陽を浴び、ビタミンDでも補給すべきでは・・・(最近曇りがちな天気ばかりなのだ)

 

などなどと私の脳内ではモヤモヤしながらも、それでもパソコンをパチパチうち、モヤモヤと並行してブログを書くことを即座に決断・実施しているのだ。

 

こんなとこでも細かい人生の分かれ道:ゴミ箱行きか、否か

何より、このブログコンテストについてのお知らせメールは、もう少しで私のEメールBOXからゴミ箱へ直接行く運命になるところだ。パッと見宛名には、「はてな」としか書いてなかった。

Eメールの題名も『はてなの最新情報をご紹介』とだけしか書いてない。もし私が、先月のサンタモニカへの引っ越しを機会に、はてなブログを始めたばかりでなければ、きっと、ああまた迷惑メールだな、と、メールも開けずに、このEメールもさっさとゴミ箱行きの運命を辿っていただろう。

今回は何故だか「はてな」からかフウン・・・あ、はてなブログもまだ始めたばっかりだから、こう云うたぐいも、とりあえず最初くらい見てやるか、、くらいの上から目線のノリで開けてみたところ、面白そうなブログコンテストがあることを知ってしまった。

身の程知らずは怖いもの知らずで、このようなコンテストには食らいつきやすい。無論、私自身のことだが。決断は速かった。

要は、こうした機会をいただくと、ブログを書くモチベーションはアップするのだから、そこは皆にとって平等と言えよう。

 

という訳で、開けてすぐに、他のことをほったらかしで、かれこれ既に数時間ほどドツボにはまっているのが、まさに今の私である。ああ、決断力、恐るべし。ここまで来て後戻りはしないのだから。

ドツボにはまる・・・決して悪くないじゃないか。

・・・ゴミ箱に捨てなくて本当に良かった・・・運命はこんなふうに地味ながらにも変わっていくのだ。せっかくのサンタモニカ、太陽を浴びずとも、一日中家にいる私にでさえ、こうした道の枝分かれがあるのだから。何事をするにも馬鹿にならない、Eメールを開ける一回のクリックでさえも。

 

勿論パラレルワールドにおいて、今ノルウェー行きの飛行機を格安でゲットしたホクホク顔の私や、只今絶好調で日光浴中の私のことも「いやーお金を思いっきりセーブできたり、ビタミンD補給で今日も健康で良かったねえ」と言ってあげたい。

 

因みに、Eメールを開けるか否か・・・そんな決断はだいたい数秒で決まるので、沢山の迷惑メールを送っていただく、世界中の大手企業のマーケティングの方々も、読んでもらうのに必死だろうと思うと、私に対して言えば今回こそが彼ら(はてなブログさん)の成功とも言えよう。

つまりはてなブログさんの迷惑メール(結果的には迷惑じゃなくなりました・・迷惑迷惑とさっきから書き続けている私こそが、迷惑でしかない)を、はてなブログさんが送信したタイミングだったり、私がメールを見た今日その時の気分や体調、その日の予定だったりが、今私がこのブログを書いていることに繋がっている。これらの恐るべし偶然さまさまが、私たちの迷いと決断に常に密着しておられる、としか思えない。ここまでくると、宇宙の仕組みとか運命の分かれ道って、考えてみれば、どんなにささいなことでも決して軽んじたりせず、決してなめてかかっちゃいけないようだ。

 

あなたは石橋を叩いて渡るかって・・・?

場合によりますよね

慎重になり過ぎて立ち止まることで、閉ざされる道もある。この場合、どうやっても今は先に進むことを断念せねばならない。デッドライン(締切)のことだ。

例:昨日まで安かった航空券が翌日一気に倍以上になったあげく、大幅な予算オーバーとなり、やむなく旅行を断念。今まで何度やらかしたことか。そして今もまさしく私はこの状態にある。(前述のノルウェー旅行のことである。)

一番最悪なのは、つい1週間程前のこと。初秋に旦那の実家へ行く予定があり、いろいろなサイトから航空券を検索していたのだが、某検索サイトで、ものすごく安い航空券を見つけた時だった。

このタイミングで、すぐに買えば良かったんだな・・・

「ウワォ♪ーこれはイイ!」とはしゃぎながらも、他のサイトでしつこく更に安いものがあるかも、と検索したり「あと1時間したら、旦那も帰ってくるし、二人で確認して旦那のカードで購入してもらおう」などと考えながら、更にこんなにうまく検索できてしまう私のことだ、まだまだこれからいいもの見つかるかも、とちょっとでもためらっている20分程のうちのことだった。

画面が突然勝手に期限切れとなり、もとの検索画面に自動的にリフレッシュされしまった。あれ、何だ一体、、、と、再度同じ航空券を検索すると、100ドル近くも急に値が跳ね上がってしまった。この時は「ぎゃーやめてくれえ〜」っと叫んでしまった。もう悔しいったらこの上ない。

その後も未練がましく探したが、あの格安の値段はもはやどこにも表示されなかった。急に慌てふためいて検索しまくっても、もう遅い。ギャンブルだなーと恐れ入ったのと、このようなイチかバチかの時に、いつも躊躇する自分自身の肝っ玉の小ささがうかがえる。こんな羽目になるなら、さっさと買えば気分も財布の中身も晴れやかだっただろう。

何度やらかしたら、潔くなれるのだろうか。

 

一方、悩み悩んだ末ずっと立ち止まって考えたことで、道が大いにひらけることもあるし、逆に悩まずに即決したせいで、大損をすることもある。日常生活の中で、よくあるパターンとしては即決の後者だが、これは毎日24時間単位での生活の中、平均6〜8時間が睡眠時間であっても、残り約14〜16時間で何かしらしていると細かい選択を迫られるからである。即決した私の成功例と失敗例とは以下のようなものである。

即決の成功例:就職活動(東京時代)

そろそろ仕事でも探さねば、、うん?この会社は、某求人サイトにしょっちゅう出てくる大手の外資系のIT企業ではないか。

まだ新しい投稿で、どうやら新しいポジションでの人材を募集しているようだ。

もうかれこれ1年も無職な私。そろそろ旦那にも言い訳ができない、早く職を見つけねば、とは言え、さすがにこんな大企業が私の方を見てくれるもんか・・・でもこの会社、最近よく求人サイトに出てくるから、きっと事業を拡大されるおつもりなのか、そして興味ないと思っていたけど、見ていれば見ているほど、何か良さそうだし、私にもできそうだぞ。

さ、悩みましょう悩みましょう。

⬇ ⬇ ⬇

と、約5分くらいは悩んだが、ほぼ即決とも言えよう。5分後にAPPLY(応募)をクリックしたところ、翌日にはリクルーターから電話、そしてその数日後には面接、面接の翌々日には内定、そのまま給料や福利厚生内容の交渉や確認。

こうして1週間程で話がまとまってしまった。こんな風に当初思ってもみなかった企業で、あれよ言う間に仕事を始めてしまったのだ。

因みにこの会社には2年数ヶ月ほどお世話になった。その後は旦那の仕事によるサンタモニカ移動に伴い退職したがとても良い職場であった。今でも、あの時とりあえずでもAPPLYをクリックしてよかったと思っている。だって、どうせタダで、痛くも痒くもないんだから。

 

即決の失敗例:レストラン編

私はトムヤムが大の大好物なので、タイ料理に行けば他のメニューには目もくれずにトムヤムで、とにかくトムヤムに目がない。けれど、既に心に決めた大好きなトムヤムにさえ、裏切られることがある。この日初めて入るタイ料理屋で、ひととおりメニューをチェックした後で「やっぱりトムヤム」とトムヤムをオーダーした。

 

ところが・・・コレはまずいぞ・・・ライムが効き過ぎなんじゃ・・・

 

私の旦那が頼んだイエローカレーの方がずっと美味しそうに見える。一口食べたらやっぱりすごく美味しい。こんなことは、トムヤムに限らず、他のジャンルのレストランでもしょっちゅうだ。目の前で美味しそうにイエローカレーを頬張る旦那まで恨めしく思えてしまう始末の悪さである。

 

迷い、決断=宝もの、奇跡

ではないでしょうか。人間ですから・・・

 

だから、どうあがいても、絶望にぶち当たっても、とにかく息を吸ってはいてを繰り返し続ける限りは、この宝ものを手のひらで転がすくらいの気持ちで自分自身と付き合って行く必要がある。

ここまでいろいろとこれまでの人生について、その都度起こった偶然、悩み、選択、決断について書いたが、大きなことも小さなことも本当に沢山あったもんだなあーと、ぼんやりしてしまう。 

ただ絶望だけはね・・・こいつがやっかいで

そして、こいつは誰にでも等しくやって来る。そして一気に心を弱くさせてしまう。自分にベストだと信じて、悩み悩み抜いて決断した場合は特にこうなる。

慰めるつもりであろうとなかろうと誰かから何を言われても、それらは本人には全てきれいごとに過ぎず、実にこんなブログも一吹きで飛ばされてしまうほど、絶望にはかなわないし、私だってもうまっぴらだ。

絶望中は何も考えられないけれど、絶望に直面したら、迷いと決断、またこの2つを思い出せる状態にこぎつけること、とだけしか今の私には言えない。

あの時

実際、必死で両親を説得し、意を決した高3での交換留学でも、なんと惨めで情けない自分だったことか。

英語力の無さに気づき、ヨーロッパから来た留学生達の英語レベルやルックスの華やかさの違いにコンプレックスを抱き、放課後帰宅後は冷蔵庫の中の食物を、ホストファミリーにばれないよう一人でゴソゴソとあさる日々。腹が膨れればそのままベッドに直行し、ただ暗闇で目を閉じて日が暮れるのを待った。

友達なんて簡単にできると高をくくっていたが、誰も見向きもしなければ、こちらから一声話しかけることもままならない。いよいよ英語を声に出すことこそ怖くなり、コミュニケーションとは一体そもそもどんなものなのかも分からなくなりパニックし、ネクラまっしぐらになった。

「絶対に留学する」と、親を巻き込んで決めたくせに、このありさま、なんと惨めなんだろうと、落ち込むしかなかった。「なんでこんなことになっているんだろう」「なんのためにこんなことをしているのだろう」

自分で留学を決めたことが、こんな結果になったのだから、自分の責任であるのには変わりなかった。

 

ただ、帰国だけは決して考えられなかった。帰国の「き」すら頭にはなかったのだ。やはりどこかで英語だけの世界にいることをほくそ笑む自分がいた。こんなどん底の、見苦しい様だった自分自身のどこに、ほくそ笑む余裕があったのかは、今でも謎だ。どん底だろうがなんだろうと、これでも自分の自己ベストなんだ、とでも思っていたのだろうか。

 

信号で言うと、まさに赤だった。何もできないなら、その場でもがくことをストップする状態ということになる。それでもいずれ、青になるものだ。

と考えるようにした。

 

そう、青はいずれやってくるもの。

 

ある日の放課後、具体的には忘れてしまったが、コーラスの授業で一緒だったクラスメートの家に、たまたま何かの用事があった。彼女の家に行くと、そこではおばあちゃんがキッチンで料理をして、クラスメートもいた。

私「うわー何かいいにおいですね」

おばあちゃん「貧乏人のディナータイムだけど、食べていく?」

クラスメート「そうそう貧乏人のお家へようこそ!お皿、かってにとっていいから一緒に座って食べようよ」

こんな調子でついつい夕食を一緒に食べさせてもらった。(本当に貧乏人なのか、と私にはそうは思えないほど大きな家だった)夕食のソーセージと豆の煮込みは、トマト風味で、とても美味しかった。

用事が済んで、帰る際には「またいつでもおいでよ」と言ってくれた。帰り道、足取りが軽くなっていた。

この日を堺に、何かが変わった、と。

 

ひとりぼっちだと自分では思っていても、いつも必ず誰かがいてくれることをようやく感じた瞬間だった。相変わらず、友達が沢山できることはなかったが、もともと私は大勢の友達と付き合う性分ではなかったのだ。今でもこの家族とは連絡を取り続けており、何年に一度は必ず会いに行く。

彼らと出会ったことで自分の心は豊かになり、そして成長できた。

留学を選んで良かった、と思った。

 

もし自分の大切な人が、絶望に直面している時・・・

その人に対し自分は何を迷い、決断し、実行するのだろうか

 

無意識的でも意識的でも良いから、それをできる人って、素晴らしいに違いない。この時のおばあちゃんとクラスメートは無意識に、それをできる人だった。彼らにしてみれば、あえて何も良いことをしたとは思っていないだろう、私も彼らとのその後の付き合いで、それがよく分かる。

 

そういえば、サンフランシスコに住み始めて半年後、父からふっと、こんなメッセージをもらったことがある。

元気かい?
ワシは今学年末でいろいろあってバタバタしてるけど、元気だよ!(父は教師でした。)
お母さんも、お姉ちゃんも、いっちゃんも元気にしてるよ!もちろんチコ(うちの猫)も!じっくり本を読みたいと思っていても、なかなかできないね!集中力が落ちてきているのかもしれない…。
ア君(うちの旦那です。仮名です)のご両親にも会いに行きたいと思っているけど、いつ頃がいいかな…

(省略……)
いずれにしろ、君たちが仲良くやってくれていたらいいよ…!
ア君によろしく伝えてください!
ではまた! 」

この頃の私は少しくじけていた。

当初はワクワクしながら久々の海外暮らしを始めたものの、留学した17歳の頃のようなエネルギッシュさも最初だけですぐに消えてしまっていた。

またしても「自分で決めた」ことで、しかも今回はもう立派な大人なのに、自分の意思でサンフランシスコに来ても毎日時間を無駄に持て余し、何をしたら良いのか分からないというのが、あの頃の情けない自分だ。

父はどのようないきさつで私に突然あのようなメッセージを送ろうとしたのか分からないが当然私がヘタっていたことは知らないし、深い意味など全くなく、本当にたまたまふと私のことを思い出してメールしただけだろう。

父の口から無意識に出てくるような、ちょっとした言葉で、何も特別ではなかったかもしれない。ただ、それが、あの時私の心にはちょうどよい加減だったのかもしれない。

 

あるタイミングで、無意識に発せられた言葉でさえ、その言葉を受け取る側に変化をもたらす。

無意識だろうとなかろうと、父がこのメッセージを私に送ろうとしたように、誰かのふとした決断と行為によって心が救われることだってある。だから、人ってすごいなあ、言葉ってすごい力を秘めてるよなー、と思う。

 

悩みと決断は、偶然というお皿の上で、お互い細かく密に関わって、同時に溶け込んでいる。大きなことは誰にも何にも言えはしないが、周りにいる人たちと一緒に(たまには一人で)、「私よ、なるようになれ」と自然に思えれば、それだけでも十分かもしれない。

 

最後に、冒頭の方でも書いたが、手元にあるコーヒーについては、結局あれから一口しか飲まなかった。コーヒーはもうすっかり冷めてしまったし、現在口の中も喉の奥も、カラカラしている。今日は全く水分補給が足りなかったように思う。これも実に私の選択であり、たまたま今日という日に、はてなブログさんのEメールを開けてしまった故、ついには没頭してしまった私のせいだ。

もうとっくに日も暮れた。ノルウェー旅行の航空券は、明日に任せるとしよう。

サッと立って冷蔵庫を開ければ、冷たい飲み物にもありつけたのに、と私のカラカラの喉が怒っているような気がしてならない。

コミック作成協力:@harmstudio (Instagram / Twitter)