現在、ロサンゼルスに住んでいる私にとって、英語は既になくてはならないもの。日常会話も仕事も全て英語。英語というものをあえて「英語」と呼ぶことも不自然なくらい、英語が自然な日常だ。
はじめに
そんな私(現在アラフォー、でもまだフォーの台ではない)でも、高校3年で一年留学しなければ、今ここにはいない。
いくら学校で、英語成績が良かったとしても、ここにはいない。
カンザスでビシバシ鍛えられたおかげで、今の私はいる。なまっちょろいことなど、あの9ヶ月間、一切なかった。家でも外でも、気の休まることもなかった。
日本にいても上達するのか:答え「ある程度」
日本にいても英語は上達する、ってのは嘘じゃない。ある程度は日本にいても上達はする。けど、本当に英語を自分のものにするなら、日本にいても「ある程度」以上は上達はしない。ある程度のレベルで良いのなら構わない。そりゃあ、やらないよりは上達するのは当たり前。努力すればするほど、「ある程度」のレベルも人様々でもある。でも、それ以上は伸びない、と、それだけは言える。
日本にある外資系でも、英語が全くできない社員を何人も見てきた。彼らは彼らなりに英語が「ある程度」できていて、仕事上ではだいたい、問題はない。けれど、それは私にすれば、あくまで「ある程度」の域だ。 いざ、プレゼンや、ビデオカンファレンスになると、全く英語が理解できてないのが目に見えて分かる。でも、それでも英語で仕事ができているのだから、彼らにとっては「ある程度」でもベストと言えるし、素晴らしいことだ。だから、人様々でいい、けれど、やはり英語が生活に浸透しきれず、限界はある。
要は、カンザスでなくってもどこでも良い。私はたまたま留学斡旋会社がカンザスにホストファミリーを見つけただけのこと。上達したいなら、カンザスはおすすめだけど、私は誰にもおすすめはしたくない。
だって、本当に辛かったから。
私のいた町:Haviland
この町で思い出すのは:孤独、差別、夜な夜な涙、膨大な宿題の量、夜ご飯の冷凍ポテト、地平線、牛、牛糞の臭い、トイレ掃除、ホストシスターのいびり、ホストマザーとホストファザーの不仲(後に離婚してます)、膝が乾燥して粉を吹いたこと
こんな感じです。
カンザスは人口600人の町、Havilandというところだった。因みに高校は今はもうない。当時はHaviland High School(公立高校)というのがあったが、数年ほど前に気づいたらなくなっていた。今はKiowa County(カイオワ郡)の高校として、他の町と学校が合併したようだ。
アジア人系なし、アフリカ系なし、ラテン系は数名いたが、ほぼ99%白人社会。そりゃあよそ者扱いもあったけど、当時の私も未熟者で、すぐに打ち解けると勝手に信じていた。アジア人は珍しいので皆もっとチヤホヤすると、勝手に期待していた。けど、よく考えりゃ、ニヤニヤ薄ら笑いしかできない、何を言っているのかもお互い理解できないという状況で、周囲のティーネージャーが受け入れてくれるなんて期待する私が、大間違いのトンチンカンだったとしか言いようがない。
ところで、アフリカ系の男の子が私の留学生活の中盤あたりで、ケニアから転校してきました。彼も結構さびしそうだった。
とにかく最初でしくじると、あとでの巻き返しは無理だった。
日本では、地味な女子高校生なりにも、友達とはふざけたり、学校でもはしゃいだりしていたから、アメリカでも、海外ドラマに出てくるようなノリで、「ヘイ、ガーイズ!(Hey guys!)」とか言ってへっちゃらで、楽しい高校生活を勝手に夢見ていたのだ。
でも、現実は過酷。
この留学生活は果たして成功と言えるか?:それは自分が決める。誰にも判断させない
正直、自分の留学生活は成功だったのか?
と言うと、他の留学生たちと比べたら、きっと大失敗だと思う。
でも、誰と比べて大失敗なんだろう・・・?何が大失敗で、何が成功なんだろう・・・?誰がそれを決めるんだろう・・・?
今の私は、あの頃の私がいたからこうしてここにいる。あの頃の私がもがき苦しんだおかげで、今の充実した海外生活がある。あの時、あんなカンザスのど田舎に放り込まれたおかげで、英語は他の誰よりも伸びたし、不思議な事に英語がもっと好きになっていた。伸びたから、好きになったのだろうと思う。留学生活の最後は、心から出会えてよかった、と思える友人もできた。勿論今でも連絡を取り合っている。
二人姉妹の、SとL。私は彼女たちに感謝しきれない。そして彼女たちのおばあちゃんLLとおじいちゃんKにも(お母さんは彼女たちが幼いころ亡くなり、おばあちゃんに育てられた)。
そう考えるとあの頃の留学は、今の私にとって大成功だ。あそこで、夢も希望も打ち砕かれて、現実の厳しさを目の当たりにしたところで、真の力を発揮し始めることができたのだと思う。苦笑いも、愛想笑いも通用しない、ただ、自分の意見を言って、自分のことを認めてもらう、それしかなかった。
それでも、今思い出しても、言いたいことも半分も言えてなかったと思う。ただ、一生懸命考えて、一人ぼっちでもきっと何とかなる、と思ったら、最終的に何とかなったのだ。心はボロボロだけど、それでも気合で留学生活を楽しんだし、無事最後は元気に留学生活を満期で終了し、日本に帰国したのだ。
最後に
正直、こんなに苦しまなくっても、自分よりも成功して海外で大活躍している人はゴマンといる。でも、あの頃の自分があそこまで苦しんで、誰も知り得ない未開の地に近い存在のHavilandという、ど田舎の日常を知ることができて、私は本当に誰よりラッキーだった。
真のアメリカ、ここにあり。と、思う。
あの未熟な多感期の18歳で、普通の日本の高校生が決して知ることのない(テレビや映画でも美化された似たような場所の映像はあるかもしれないが、住んでみると現実はもっと強烈ですよ)、そんな世界を見て感じることができて、それが今の私の人生の糧になっていることは、言うまでもない。
価値観は、より広い世界を知ることで、やっと価値観となるのだから。さもないと、私はかなり英語ができると思い込んでいる、井の中の蛙だった。
だから、もっともっと貪欲に世界を知る、と思うことは自分が生きていく上で、更に未来の世界のためにも大切で、英語と向き合うにも、挑戦して、どん底を味わって、希望に変わる瞬間が生まれることだってあることを、これから学ぼうと思っている人に知ってほしい。(英語に限らず。)
英語はそのための道具として、むしろ道具を活かして、世界を知ることが何より未来の私達に大切なんじゃあないかな。その中で道具は少しずつ強化していけばいい。
アルク #トーキングマラソン 特別お題キャンペーン「わたしと英語」